特攻隊員の遺書

妻宛書簡
陸軍衛生伍長 伊藤 甲子美命 二十六歳
マリアナ島にて戦死
 

 季代子 かう呼びかけるのも最後になりました。短かつたけど優しい妻でした。有り難く御礼申し上げます。まこと奇しき縁でしたけど、初めて幸福が訪れた様な気がして嬉しく思つていました。折角永遠の誓ひを致しながら最後になりますのは、何かしら心残りですけど、陛下の御盾として果てる事は、私にとりましても光栄と存じます。
 短い生活で、もう未亡人と呼ばれる身を偲ぶとき、申し訳なく死に切れない苦しみが致しますが、すでに覚悟しての事、運命として諦めて頂きたいと思ひます。若い身空で未亡人として果てる事は、決して幸福ではありませんから佳き同伴者を求めて下さい。
 私は唯、幸福な生活をして頂きますれば、どんな方法を選ばれませうとも決して悲しみません。
 さやうなら季代子、何一つの取り柄のない夫を持つて、さぞ肩身の狭き思ひで有りませう。至らない身、お詫びを致します。
 何日の日か幸福な妻にさして上げたく思ひ乍ら、その機会もなく心残りでなりません。
 どうぞ御健やかに御暮らし下さいます様、お祈り致しています。さやうなら。

昭和十九年五月三日 伊藤 甲子美
季代子様

【本当に有った屑の発言】

 なんで、おまえらはアラブの自爆テロを賞賛しないんだ?
 なんで、おまえらはアルカイダの自爆テロを賞賛しないんだ?
 なんで、おまえらはイラクの自爆テロを賞賛しないんだ?
 なんで、おまえらは特攻隊だけを賞賛するんだ?
 おかしいじゃないか。



海軍少佐 篠崎眞一命
横須賀海軍航空隊
昭和十九年六月二十九日
内南洋方面にて戦死
東京都出身 二十四歳
 
玲子
 玲子は日本一、否世界一の妻なりと思ってゐる。苦勞のみかけ、厄介ばかりかけ、何等盡し得なかった事済まなく思ってゐる。
 四月十五日以来僅な月日であったが、私の一生の半分に價する月日であった。
 父母に孝養を盡してくれ、私の分迄。
 私に逢ひ度くば空を見よ、飛行機を見よ、軍艦旗を見よ。私は其処に生きてゐる。
 結婚のすべての手續き、六月十二日に横空で完了して置いた。
 くれぐれも後をョむよ。私の出来なかった事も玲子には出来る。
 後顧の憂、一つなく征ける身の幸福を感謝してゐる。
 最愛の玲子、御身を常に見守ってゐるよ。

【本当に有った屑の発言】

 奥さん一生操を守ったのかな?
 半年くらいでマンコが疼いて村の男の肉便器?



植村眞久命 東京都出身 海軍第十三期飛行科予備学生
昭和19年10月26日没(満25歳) 海軍大尉
昭和19年10月26日、「第一神風特別攻撃隊大和隊」隊員として「爆装零戦」に搭乗、比島セブ基地を出撃、スリガオ海峡周辺洋上にて戦死。
 

 素子 素子は私の顔を能く見て笑いましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。
 素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代叔母様に私のことをよくお聞きなさい。私の写真帳もお前のために家に残してあります。
 素子という名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思いやりの深い人になるようにと思って、お父様が考えたのです。
 私はお前が大きくなって、立派なお嫁さんになって、幸せになったのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまっても、決して悲しんではなりません。
 お前が大きくなって、父に会いたいときは九段にいらっしゃい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮かびますよ。
 父はお前が幸福者と思います。
 生まれながらにして父に生き写しだし、他の人々も素子ちゃんをみると真久さんにあっている様な気がするとよく申されていた。
 またお前の伯父様、叔母様は、お前を唯一の希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
 必ず私に万一のことがあっても親無し児などと思ってはなりません。
 父は常に素子の身辺を護っております。優しくて人に可愛がられる人になって下さい。

 お前が大きくなって私のことを考え始めたときに、この便りを読んで貰いなさい。

昭和十九年○月某日                  父

植村素子へ

追伸
 素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。
 素子が知らずにいると困りますから教えて上げます。

植村大尉

※それから22年余りたった昭和42年4月12日、父の母校である立教大学を卒業したばかりの素子さんは、靖国神社の拝殿において、母や家族、友人や父の戦友たちの見守る中で、6歳の時から習い始めた日本舞踊を舞い納めました。

【本当に有った屑の発言】

 この程度で泣ける安っぽい涙腺。
 良いよね。埃がすぐに排出できてw



海軍大尉 水知創一命

回天特別攻撃隊「轟隊」
昭和二十年七月十六日
本邦東南海面にて戦死
兵庫県出身 早稲田大学 二十一歳

愼二様

 急に休暇が許され、又余りにも短かったので呼ぶ事が出来ず悪い事をしました。
 愼二は私のたった一人の弟です。早く立派な人になって父上、母上を喜ばしてあげて下さい。
 兄の様な親の心配を掛けてばかりゐる様な男になってはなりません。
 今に兄達が必ず敵をやっつけますから後は、愼二達が一所懸命勉強して日本をますます良い国にして下さい。
 では元気でしっかりやって下さい。

                             創 一

【本当に有った屑の発言】

 理不尽な死を強制されて、一生懸命それに意味を見いだそうとして悪戦苦闘、ようやく納得出来る理屈をでっちあげ遺書を書きながら自分を無理矢理納得させようとした課程がありありと伺え涙を誘う。



谷 暢夫 海軍少尉 昭和19年10月25日
神風特別攻撃隊敷島隊出撃 散華(享年20歳)
 

母親と面会して

 子を思う御国の母は有難し 千里万里もわれを訪ぬつ
 山よりもはるかに高し 海よりもはるかに深き 親の恩かな


家郷への最後の書簡

 親を惟ひ 国を憂ふる心あらば 身を桜花となりて 散りゆかん


遺書

 はじめありて 終りあるもの 鮮し
 永らくのご厚思を謝す。何一ツ親孝行らしきことなき小生も、最初の最後の親孝行を致します。
 忠孝一致、とは古人、実によく云ったものと感心します。ご両親の長命を切に祈ります。
 日の本の空征くものの心なれ 散るを惜しまぬ桜花こそ

辞世

 身は軽く つとめは重きを思ふとき 今は敵艦に ただ体当り
 身はたとひ 機関もろとも沈むとも 七たび生れ撃ちてしやまん

【本当に有った屑の発言】

 こんな妄想の辞世の句を書いておきながら、実際は敵艦隊を見つける前に、機体不良墜落という惨めな死に方が大半。



陸軍少佐 海野馬一命

歩兵第五十四聯隊
昭和二十三年四月三日
ボルネオ島にて法務死
岡山県出身
 
 愛児へ
 児等よ嘆ずること勿れ。父の死は決して汝等を不幸にはしない。
 汝等は父の死によって何でもよいから一つの教訓を得よ。
 他の人の得ることの出来ぬ教訓を得よ。そして立派な人間となれ。
 汝等よ。汝等の母は日本一の母なることを汝等に告げる自身あり。
 母の言をよく守れ。母の言は即ち父の言だ。
 和幸君瑞子様誠子様仲よくよき母の許にてよく勉強して立派な人となれ。
 人間は何も高位高官の人となる義務はない。国家のため人にためになる人になるのが人間の義務だ。
 和幸君よ父は汝に将来如何なる職業に進めと云ふ権能はない。
 又汝の性格も判らぬから申さぬ。然し弱きを助けるのが男だ。
 父は軍隊生活中この気概を持してやって来た。(中略)
 「弱きを助ける人となれ」これが父の言葉だ。汝未だ五才と雖も父の言を忘るる勿れ。
 瑞子様はお姉さまだから父の心がよく判るであらふ。
 和幸や誠子が成長するに従ひ父の心を傳へて下さい。(後略)

【本当に有った屑の発言】

 遺書を読んでると、如何に自分の惨めな死を美化するかという必死さが伝わってきて、惨めさを禁じ得ません。
 よど号ハイジャック犯の声明と同じようなものだな。



海軍大尉 林 市造命
昭和20年4月12日
南西諸島方面にて戦死
福岡県宗像郡赤間町出身
京都帝國大學 海軍第14期飛行科予備学生 23歳
 

 一足さきに天国に参ります。
 天国に入れてもらえますかしら。お母さん祈つて下さい。
 お母さんが来られるところへ行かなくては、たまらないですから。 お母さん。さよなら。

母マツヘさんの手記

 泰平の世なら市造は、嫁や子供があつて、おだやかな家庭の主人になつていたでしょう。 けれども、国をあげて戦つていたときに生まれ合わせたのが運命です。
 日本に生まれた以上、 その母国が、危うくなつた時、腕をこまねいて、見ていることは、できません。
 そのときは、 やはり出られる者が出て防がねばなりません。

 一億の人を救ふはこの道と母をもおきて君は征きけり(戦後識す)

【本当に有った屑の発言】

 たかが、強制的に殺される前に、自分の生きていた証明をしたいがため、自分が死ぬことに意義を見つけ出したいがための自己陶酔した文章だろ?



大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)

 大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。
 わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。
 伍長どのは今日、みごとに出げき(撃)されました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

 伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやう(特攻人形)を大へんだいじにしてをられました。
 いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこし(腰)や落下さん(傘)のバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。
 飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

 伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。
 同行二人…仏さまのことばで、さう言ひます。
 苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。
 伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。
 けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

 伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。
 静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。
 さやうなら

大石清伍長 遺書

 なつかしい静(しい)ちやん!
 おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。
 この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。
 思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

 兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。
 時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。
 兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。

 もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。
 では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ!

【本当に有った屑の発言】

 自分の死が無駄ではないと必死で思いこもうとしているのが文章ににじみ出てますな。
 逆に言えば、自分の死はホントは無駄だということを理解しているわけだ。



 元陸軍准尉・田形竹尾氏は、
 「特攻隊員の遺書は『あとをたのむ』ということと、両親、兄弟姉妹、奥さん、子供に対し、『先に死んで申し訳ない、自分の分まで長生きしてくれ』ということだけだ。
 戦後、特攻隊が軍国主義の犠牲になって殺された、悲惨な最期を遂げたと馬鹿なことを言う人がちがいる。
 特攻隊員は真の日本人として、愛する祖国、家族のために勇敢に死んでいった。
 特攻隊員に対する感謝の気持ちを忘れてはならない。」
 と語ったが、真の売国奴になるためには、引用したの屑のような気違いにならなければならない。




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